サリ パン パシフィックは5つ星ホテルでありながら、高級ホテル特有の堅苦しさが全く感じられず、玄関口を入ってすぐのロビー階全体にアジアのまったりとしたゆるい空気が流れる、ちょっと異色の存在である。実際に宿泊したことはないが、長期滞在者の弁「妙に居心地が良いホテル」に納得できるのは、現場で働くボーイさんや女性スタッフの自然で家庭的な対応に起因する。これまでサリ パン パ
シフィックにはレストラン取材のため何度か訪問する機会があったが、併設するレストランとホテルの広報をつかさどるPR部門の関係が非常に円滑で、すべての面で話が早い。こういう風通しのよい雰囲気、空気というものは、ホテルの長年の歴史から醸成された個性である。
ジャカルタの「炉辺焼き」のパイオニア的存在である「欅(けやき)」レストランは、ロビー階の右奥にちょっと控えめに玄関口を開いており、一歩中に入るとフロアは非常に広く開放的である。オレンジを基調とした暖色系の照明が、フロア全体に和やかな雰囲気を演出する一方、中央に位置する炉辺焼きカウンターと氷床に整然と並べられた新鮮な魚介類群が、圧倒的な存在感でもって、幾分の緊張感を生み出している。
僕の場合、「欅(けやき)」には昼のランチでお世話になることが多く、美味しい天麩羅または鯖塩焼きが食べたくなったら、オフィスから猛暑のタムリン通りを10分歩いてでも「欅(けやき)」に向かう。高級日本食レストランのランチが、リーズナブルな価格で気軽に食べられるとあって、隣のスカイラインビルはもとより、タムリン・スディルマン近辺のオフィスから多くの日本人が集まってくる。昼のランチのお客さんは6割がた宿泊客以外の外部からの訪問ということから、いかに「欅(けやき)」のランチのファンが多いかが判るというもの。
「欅(けやき)」といえば炉辺焼きの印象が強いのだが、意外なことにシンガポール店では寿司カウンターが一番人気を博しており、クアラルンプールではフロア席から順に埋まっていくらしい。ジャカルタ店で炉辺焼きが人気を誇るのは、客が目の前の素材を選び、それを板前が目の前で調理するという演出をインドネシアで最初に定着させたことによるのだろうか。ジャカルタには炉辺焼きを出す店は何件かあるが、やはり知名度で言えば本家本元である「欅(けやき)」を凌ぐ存在はないように思う。
日本人シェフ伊藤氏には、これまでも何度か取材でお世話になっていたのだが、今日はマスク姿でのご登場。ここ2週間風邪気味で、今日になって本格的に声の出が悪くなりはじめたという。抵抗力が弱っているので医者に休むよう忠告され、ようやく明日から休めるという非常に申し訳ないタイミングで面談のお時間をいただいた。日本の江戸割烹店で純日本料理を修行し、次に赤坂のフュージョン系の店で経験を積んだ後、マレーシアのクアラルンプールを経てジャカルタ4年目を迎える。
ジャカルタでも本当に美味い質の高いもの、そこでしか食べられないものにはそれ相応の金額を支払うという層が若者を中心に増えており、これが「欅(けやき)」で炉辺焼きが根強い人気を誇る理由の一つであろう。炉辺焼きの常連さんはメニューの価格を見ることなく「好きなものを好きなだけ注文する」そうで、そこにはインドネシアの政財界のVIPも含まれており、セキュリティーを店の前に待たせて、炉辺焼きカウンターで舌鼓をうつそうだ。日本食レストランの数が増え、生き残りのための競争が激しくなっている昨今でも、受け継がれてきた伝統に裏打ちされた、その店ならではの「強み」があることは非常に有利に働く。また顧客の国籍に偏りがあると、その顧客の国のカレンダーに売り上げが大きく影響されるため、その点でも「欅(けやき)」の現在の顧客の構成比は絶妙のバランスがとれている。これが息の長い商売をする秘訣なのだろう。
さて、日をあらためて土曜日の夜に、日本からの出張者を連れて再訪。夜に「欅(けやき)」に行くのは初めてのこと。案の定、炉辺焼きカウンターは羽振りのよさそうな中国系インドネシア人で満席。活気ある炉辺焼きカウンターをスルーして、奥の落ち着いた雰囲気のテーブル席につく。注文した全品最高に美味しかったが、今日のお勧めは以下の4品。
●海老天麩羅
ここの天麩羅が美味いことは前から判っていたので、今日は嫁さんのために海老天麩羅を注文。天つゆに大根おろしの塊を落とし、箸で突き崩してまんべんなくつゆと絡ませる。そこにアツアツの海老を大根おろしの下に潜らせるように浸していく。カリカリの衣につゆと大根おろしをたっぷりと絡ませ、アツアツ感とヒヤヒヤ感の両方を味わえる頃合を見計らって、海老天を引き上げる。衣のサクサク感と海老のぷりぷり感のコンビネーションが絶妙である。
●イカ丸焼き
香ばしい鼻腔を刺激するイカ焼き特有の香りと、ふんわりとした柔らかい歯ごたえから、イカの新鮮さがすぐにわかるというもの。いつもながら「欅(けやき)」の素材の新鮮さに感心する。大ぶりなイカが隠れて見えなくなるほどたっぷりと乗せられたカツオブシの山の上から、醤油をちょっと多めに撒いて白ご飯と一緒にいただく。これだけでもご飯3杯はおかわりできそう。炉辺焼きのパイオニアだけあって「欅(けやき)」の焼き物系は特に絶品だと思う。
●マグロ山掛け
新鮮なマグロ赤身のぶつ切りにヤマイモを絡めた、これぞ日本食というメニュー。ヤマイモは胃の中で膜を作ってくれるので、酒を飲む夜の最初の一品として最適。それにしてもマグロの鮮度の高いこと。土曜の夜にもかかわらずこれだけのお客さんが入るからこそ、素材の回転率が早く、常に鮮度の高い料理を提供できるのであろう。
●冷やし稲庭うどん
稲庭うどんの冷やしバージョンというのは過去に食べたことがない。氷の上に盛られたヒヤヒヤの麺を、ネギと生姜を入れたさっぱり麺つゆにたっぷりと浸していただく。アルコールで火照った体を心から冷やしてくれる清涼感溢れるつけ麺です。
痛々しいマスク姿にもかかわらず、ご自分の信念を熱く語っていただいた日本人シェフの伊藤氏。ジャカルタのすべてのレストランにはそれぞれの役割があり、個性をいかして共存していくのが日本人社会のためになる。ジャカルタは好きな街だが一生居られるわけではない。そうだとしてもなんらかの足跡を残していきたいのだと。
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